January 2014

January 27, 2014

戦国地図帳

戦国時代が大好きな私ですが、本を読むときに
いつも苦労することがあります。

昔の国の名前、領主の名前で言われても、
それが現在の日本のどこなのか、
いまいちピンとこないこと。

そう、まだシロウト歴女なのであります。 


そんな私たちにとっての必携バイブルを、
昨日、図書館で見つけてしまったのですよ。


「戦国合戦地図集」。


これじゃ。



写真 2
 


これを見ると、明応の政変~関ヶ原直後あたりまでの
主要な合戦地が地図上で全てわかるばかりでなく、

写真 3


各地領主のお名前や家紋、地方ごとの兵力までもが
全てわかる


ばかりでなく!


歴史に残る大合戦については、昨日見てきたかのような事細かな
布陣や兵法の説明まで載っているのです。
(例えば桶狭間の戦いや、厳島の戦いなど。) 

関ヶ原と大坂の陣での大名配置マップが両方ついているし…
誰がどう領地変わったか、消されたか、一目瞭然!!!

すばらしいのう~~


実際、昨日の大河ドラマ「軍師 官兵衛」を、この本片手に観て見ると、
織田信長関連の城の位置などが手に取るようにわかり、
楽しいことこの上ないのです。 


さらに、嬉しいのが、各武将の年齢差が一目瞭然のこの表。

写真 1

信長と、秀吉と、家康がお互いに何歳差かなんて、
皆さん、知ってました?!

大河ドラマだと、こういうところは俳優さんに騙されてしまうんですよ!

 本能寺の変で織田信長が死んだ時、
信長49歳、秀吉47歳、家康41歳
です。

ちなみに同年、
明智光秀55歳、上杉景勝28歳、石田三成23歳、伊達政宗16歳です。 


もはや、この本無しで大河ドラマも歴史小説も読めないです。

でも、これ、図書館から借りているんだよなあ。
欲しいなあ。返すのやだなあ。


よしここは、戦国の習いに従って、下剋上だ!!
兵を挙げるぞ!!


「図書館の戦い」。 

January 25, 2014

ゆたんぽ様

今さらなんだけど、「ゆたんぽ」って素晴らしいですね。

昨日、風呂場で、見つけてしまったんですよ。


****


昨日、冷えたんですよね、夜。

部屋で本を読んでいたけど、あんまり寒いので、
まだ9時半だけど寝ようと思い立ったのです。

私の家、皆さんのお宅と違って桁違いに寒いので、
夜だったら無理して暖房をガンガン付けても梨のつぶてで、
風呂に入って寝るか、何もせず寝るか、という選択肢になります。


冷たい布団に入ると、最初の10分くらいが地獄の様ですよね。

布団の生地に触らないように適切なポジションを取るのが至難の業です。
というか、布団に入って布団の生地に触らないなんて、無理な話です。
水に触れないように水泳をするのと同じくらい、無理な話です。


昨日の夜は寒かった。

それで、気仙沼の夜を思い出しました。


****

先日、例の気仙沼の自然楽校に泊ったとき、
夜の底冷え対策として、ゆたんぽの支給があったんですね。

ほぼ、初めて使ったんですよね、ゆたんぽ。
達磨ストーブにかけていた鍋からお湯をいれて、
寝袋の足元にポイっと一個入れて、寝袋に入る。

こんなに、違うのか、と思いましたね。
30数年間、自分は何をしていたのかと思うくらいでした。

冷たい布団に入るときの、絶望感が全くない。
足元が、まろやかにあたたかくて、全身が天国に居るような感覚。


****


そうだ、今日もゆたんぽがあれば!
この家のどこかで見たことがある気がする…
と暫く探していたら、風呂場でおばあちゃんのゆたんぽを発見!!
神様ありがとう~~~


ゆたんぽ


やかんに熱湯を沸かし、ゆたんぽの半分くらいまで熱湯を入れ、
あとは満水になるまで湯沸かし器のぬるま湯。


ふとんの足元に入れて、いざ就寝!!(いざ出陣、風に)
 
あたりまえだけど、お湯の温度と同じくらいあたたかい!!!

よもや、ここまでとは。 
人類の叡智を感じました。


歴史を調べてみると、「たんぽ」は中国語だそうです。
大陸から日本に伝来したんですね。
わたし勝手に「タンク」が訛ったんだろうと思っていましたが。

布団に入れておくと8時間ほど保温状態を保てるため、
朝起きてもまだほんのり温かいんですよ。

これも調べてみると、その残り湯で朝の洗顔をしたり、
植物にあたたかい水をやったり、という活用を推奨している。

素晴らしいな!ゆたんぽ。


ゆたんぽを知らない、という若い方はWikipediaで学びましょう。
こちらです。 



 

January 17, 2014

シリーズ気仙沼へゆく(あとがき)

多くの方に、このクソ長いシリーズを読破して頂いたようで、
本当に感謝の極みです。facebookでのシェアも嬉しいです。

気仙沼26
(※慰霊碑ではなく、危機感を忘れないための「津波記憶石」。笑顔で、おばあちゃんたちと。)


進捗状況報告。


昨日、この記事をアップしたすぐ後、
「野生児女子ナナコと行く!3月8日女川+気仙沼ツアー」へ
早速、お申し込みがありました。

関東からのご参加で、仙台駅で拾います。
高校の友人で、バリバリ働く女子です。

彼女の心と身体の、フットワークの軽さに敬意を表します。


こういうの、楽しいじゃないですか。
ネット時代ってすげーですね。


まだまだ募集してますよ。
お友達連れてきてくれてもいいよ。

6人くらいになったら、ファミリーカーをレンタルして
一度乗ってみたいものだと思っています。


あとがきにかえて。
 
気仙沼25

(※岩井崎。海を見つめる龍の松。こんな鳥肌のたつ風景にたくさん出逢えます。)

January 13, 2014

シリーズ気仙沼へゆく(4)

※この記事は、長くなっちゃうので連載中です。
 どうぞ第一話から順にお読みください。

 第一話はこちら
 第二話はこちら
 第三話はこちら

【前回までのあらすじ】
  宮城県気仙沼市にやってきた著者。
  町は遅々として進まない復興の最中にあった。
  過酷な状況で生きる人々の優しさ、たくましさに出逢う。 


最終回です。
ここまで読んで下さってありがとうございました。
長すぎて飽きたらごめんね。でも最後までメッセージ綴ります。



骨まで凍えるテント生活、小泉自然楽校(ブログはこちら)に宿泊して
4日目の朝。

いよいよ帰る日になりました。新潟育ちの私でも、初日には寒すぎて、
忍耐力が4日も持たないだろうと思いましたが、三夜目ともなれば、
就寝時にまったく寒さを感じないほど、防寒上手に。

人間に備わっている適応能力って素晴らしい。

最終日ということで、5時半に起きて8時まで念入りに掃除をし、
自分たちの出したごみを焼却。

初日に出逢ったひょろひょろくんが、つたないながらも逞しく、
自ら火をおこしてくれました。彼はこの4日で目の輝きが変わった
ように思います。自主的にどんどん仕事を買って出てくれて。

気仙沼12

(※ダイオキシンなど気にしていられない。ここではゴミは最小限にしなければ。
  左手奥に映っているのは阿部さんの車、「赤兎馬」。みんなこれで移動。)


この日は、阿部さんの提案で、観光に徹することに。

朝9時に宿舎を出発し、まずは南三陸の防災対策庁舎へ。


気仙沼1

この建物は最近「震災遺構」問題としてマスコミで報道されて
いますので、見たことあるかたも多いのではと思います。

南三陸の町役場の隣に建っていたんですね。
防災対策の拠点が、なんと、海抜ゼロの土地に建っていた。
立地の理由は、「町役場の役人たちが通いやすいように」。

この地域の津波は15メートルを超え、写真の建物は屋根の上に
見えている鉄塔の、先端3メートルを残して水中に没しました。

そして、この建物の中で、最後の最後まで緊急放送を流して
町の人たちに避難を呼びかけ続けた職員40数名が命を落としました。

(悲劇の様子をご存知ない方は写真をこちらのサイトでご確認ください。)

現在解体が決まっていましたが、ここは震災遺構として
(つまり原爆ドームと同じく歴史的に重要な建造物として)、
町としては存続する方向で検討中です。

この問題について2013年12月13日の河北新報の記事はこちら。)

でも市町村に残された遺構の保存・撤去についての議論は非常にデリケート。
町の住民からは「見るのも辛いので取り壊してほしい」という声が多く、
町が市や県を説得して取り壊しがほぼ確定したところで、
今さら国が「お金出すから、残せ」というトラブルが多発していますよね。

そのようなトラブルの背景には、県や国というレベルになると
住民と対話を持とうとしない、権限のある役職の人自らが見に来ない、
という事実があるそうです。少なくとも、住人達はそう感じています。

そして、行政に対する不信感は募るばかりなのです。


説明し終えて、みんなで黙祷をしたあと、阿部さんが言いました。
「ではどんどん写真撮って!」


えっ!!


はじめのうち、写真を撮ることを、畏れ多いと、思ってしまってた。
カメラを向けることを、不謹慎だと思ってしまってた。

でも、きちんとここで起こったことを理解して、
犠牲になった人たちに想いを馳せ、
減災への努力を誓って黙祷を捧げる。


そして、そのあと、携帯カメラで、ぱちぱちと写真を撮るのです!!!
そして、現代のツールを使ってびゅんびゅんと拡散するのです!!!

みんなにこの町に、興味を持ってもらうために。
震災の記憶をときどき更新して、未来への備えを怠らないように。

それが何よりも、この街の元気への近道なのだ。


そのあと小泉海岸、大谷海岸など爪痕残る遺構を色々見て回り、
いよいよ町の北端。最大の悲劇の地、杉の下地区へ来ました。


ここは18メートルの津波が来た沿岸の地区。
ここの悲劇は地形。高台がない地区なのです。
その時町に居た94人が、「津波は6メートル」という情報を信じて、
その町で一番高い、海抜約10メートルの家に全員避難し、
93人が亡くなりました。

ここは、さすがに、わたしカメラを向けることができなかったです。

カメラで切り取らなくても、その瞬間で時間が止まってるのです。

石塀の跡だけ残して何も無くなった町を歩いて、泣きました。それと、
この町と人々のストーリーを知ることができて、良かったと思いました。

その町に残った一本の松の木を彫刻した、昇り竜がひっそりと、
多くの人たちの無念を鎮魂していました。


気仙沼10



お昼になり、そのまま北へ走って、気仙沼市の市街地へ。
 
気仙沼港はコンビナートの重油流出で夜を徹して燃え続ける海面が
激しく印象に残っている街で、ここは随分大きな市街地をあらかた
津波に持って行かれ、広大な更地が広がっていました。

気仙沼港は現在、漁港としての機能を復活させ水揚げ量も震災前の
8割程度まで戻ってきている。

気仙沼11


しかしその実、この美しい港湾の海底には未だに、
撤去しきれなかった重油がどっさりと横たわっているのだそうです。

綺麗にしたいのは港湾関係者の悲願であるが、
今掻きまわしては、また漁業が出来なくなる。
ジレンマに陥っているのであります。


気仙沼はもともと人口も多く市街地なので活気もあり、
残った商業施設は早々に営業を再開、
店舗を失った商売人たちも仮設商店街で元気に営業中。

ボランティアで東北来たら、ジャンジャン遊ぶのも大切だぜ!

って阿部さんが言うので、そうとあればスッパリとここで切り替えて、
プレハブの寿司屋に入ると、なぜか皆がわたしの送別会をしてくれました。
若いみんなと昼真っからビールで乾杯。なんて美味しい寿司なんだ!!!

海水を利用した温泉にも行きました。気持ちよかった。
生きてる私たちに元気がなくなったら、何もかも終わりだからね。

気仙沼23

(※復興商店街のホームページはこちら。写真拝借)

そうして私は気仙沼を後にしました。


阿部さんや、残るメンバーが、見送ってくれました。
気軽に「また来るわ」って言いました。



余りにも多くの物を、もらってしまった。

ボランティアで「何かをしに」きたつもりだったけど、
出来たことなんて何もなかった。
それどころか、あの人たちから、こっちがもらった。
 

しかし、それで良かったのです。


阿部さんによれば、ボランティアの形は時間とともに変化するそうです。

震災発生直後は「緊急ボランティア」。衣食住を確保するため、
迅速にとにかく必要作業をこなし、被災者の命や生活を助けるボランティアです。

それがある程度達成されたら、「互助ボランティア」にならねばならない。
住民のニーズを聞き、取りまく状況を意識しながら、
一緒にお互いを気遣いながら前に進むボランティア。
いまは「支援」ではなく、「志縁」と書くのだそうです。

そして、それが真の復興に必要なことなのです。

時期はすでに「互助」に入っており、その変化に気づかずに自分の活動の
在り方をシフトできないと、却って住民にとって迷惑になるという話でした。


そんなこと、ちっとも知らなかったことじゃないですか??

もう力仕事はいらない、撤去するべき瓦礫もなくなった、
イコール、もう自分には何も出来ない、と思っておりました。

でも今はそんなステージじゃないんですね。

私が元気になることによって彼らを元気にし、
彼らの元気を見ることによって私が元気になる。
一緒に元気になる時なんです。

気仙沼21
(※自然楽校で見た朝日。ここの自然は厳しいけれど、ほんとうに美しい。)


私はといえば、新潟に、やらなければならない仕事があり、
守りたい、元気にしたい人たちがこっちにも居るので、
本吉や気仙沼のために住まいを移して活動はできない。
残念だけどこれ事実。多くの人にとって、それはそう。

けれど時代が「互助ボランティア」であるならば、
私にできることは、現地で何かするだけではないのだと思います。

離れていても、私たちには色々なツールがあり、素敵な友達がいるから
情報の発信、拡散ができる。
この震災は太古からの宿命であるのと同時に、
そんなネット時代の震災でもあるのです。

実際ここまで連載をして、予想外に多くの方から、直接真摯な
メッセージをもらいました。
(普段連絡はないけど、みんながこのブログを読んでくれていることが
やっと分かったりして、本当に感謝。この場を借りてお礼言います)
現地に行く前の自分と同じように感じていた人たちがいる、
私が思った以上に、まだ関心の高さは持続している。と分かりました。


で、みなさん。


まだ少しだけ、被災地が気になっているみなさんへ。
不謹慎にも「ちょっと見ておきたい」と、思ってしまうみなさんへ。 



次の休みに、
気負わずフラっと、
三陸のうまいもの食べに、


東北へ、行っちゃおう。


どうしたらいいか??

私に、直接連絡下さい。1人でも1日でもとにかく言って。
コーディネートはもちろん手伝います。
私の連絡先を知らない人は、下の「拍手」ボタンを押すと、私にだけ読める
メッセージを送るウィンドウが開きますので、そこから連絡先を送って下さい。

自然楽校宿泊は私より若くない人や気が進まない人には勧めませんが、
移動宿泊のあたりも相談に乗るし、ボランティア的な要素なしで
観光だけでも全然いいし、逆に仮設住宅志縁に興味があれば盛り込めます。

ちなみに私は女川中学の卒業式に参加するために
3月8日にまた石巻、女川まで北上の予定があります。
そのときついでだから気仙沼にも寄っちゃおうと思っているので
それじゃ便乗~~という方がいたら言って下さい。

新潟からだったら車で一緒に行けるし、そのほかの地方の人は
仙台駅集合にして拾う、とかにしますけど、相談しましょう。
8日出発か7日出発で1泊か2泊。まだ調整中ですが。私と行けば楽かもよ。
でっかいレンタカー借りて大人数で行ったらたのしいね!!ヒャッハー!!

連絡待っています。
このブログお友達に教えてあげるのもじゃんじゃんお願いします。


でもね、あの、実はこういう情報って、拡散してもらっても、実際のところは
私を直接知っている友達までしか、心に響かないと思っているの。

だから、どうか皆さんが、行動して下さい。
震災から、もうすぐ3年です。


そろそろ貴方と私の出番です。 


【シリーズ気仙沼へゆく  終わり。読者様の忍耐に感謝。】 

関連サイト

小泉自然楽校のブログ

阿部さんの団体、ネットワーク宮城のブログ 

私がこの企画をみつけた「助けあいジャパン」のサイト

南三陸町ホームページ

気仙沼市ホームページ

震災復興商店街 -南町紫市場- サイト

南三陸ホテル観洋 サイト

□□□□□

このブログ2011年7月の記事「震災復興ボランティアレポート」

このブログ2013年8月の記事「女川公演レポート」






January 10, 2014

シリーズ気仙沼へゆく(3)

※この記事は、長くなっちゃうので連載中です。
 どうぞ第一話から順にお読みください。

 第一話はこちら
 第二話はこちら

【前回までのあらすじ】
  宮城県気仙沼市にやってきた著者。復旧の進まない町や鉄道、
  仮設住宅で長期生活を強いられる住人たちに出逢い、
  ショックを受け、宿舎(ほぼ屋外だけど)に戻ってきたのであるが…。 


そんなわけで第一日目、激しく動揺しながら自然楽校に戻ってきました。


すると、厨房の蛇口から、水が、出ないのですよ。

どうも気温が氷点下になって、仮設の塩ビ水道管内の水が凍ってしまったか、
もしくは湧水利用の水道のため、湧水が渇水したか。
仕方なく、昼間にお風呂に溜めておいた水と飲料水でしのぐことに。

お風呂は外。でも湯沸かし器もガスもないから、薪で火をおこして
お湯を沸かします。脱衣所は野原。根性で寒さに耐える。

それから、津波発生時の様子を克明に捉えた映像を見ました。
阿部さんが、「減災」のために見せてくれたのです。

つまり大切なのはその残酷さに驚くことではなく、
次に同じ間違いを犯さないための知恵を、分けてもらうこと。
そのために見せてくれたのです。

凄い映像でした。

とにかく津波が来ることが分かったら、「てんでんこ」に逃げる。
それぞれ、めいめいで、という意味です。この地方に伝わる合言葉。
つまり、他の人の判断を待たず、自分で判断し、他人を助けに戻ったりせず、
まず自分の安全だけを最優先で確保せよ、ということ。

それが、「減災」です。

「防災」には限界がある。防げない災害がある。
自然災害はまた来るし、いつだって簡単に人間の「想定外」になるのだから。

それで「減災」。

災害時に少しでも、先人の知恵を活かして被害を抑えること。
それが少しでも、鎮魂になるのではと思っています。


その日は「どうしてここに来たの?」という話をしながら夜が更けました。
「震災時は高校生だったから、来たくても来れなくて、やっと。」
「親が、行ってみろって、言ったから。」
「ずっと、気になっていたけど、仕事が忙しくて。」
など、みんな理由は様々。

だけど、大切なのは、気になって、決断して、
実際ここに来たという、その行為。

気仙沼5

(※なかまたち。長崎、兵庫、広島、東京、そして新潟から集まった。)

寒くて、内燃のためにとにかく日本酒を飲むわたし。

気仙沼15

暖房の無い部屋で、ゆたんぽ抱えて寝袋に入り、毛布4枚かけて、寝た。
寒かったけど、星が最高にきれいな夜でした。


翌日は、南三陸町の「ホテル観洋」さんのロビーを借りて
仮設住宅住人向けのお正月イベント。
子どもら、たくさん来て、おおよろこび。

気仙沼19

現在この沿岸部にはまだ、住宅の建設許可は出ていません。
それでも営業をしたい商業施設などは、安全基準をクリアして再開しています。

現在、客室は5階以上に置き、壊滅した2階の露天風呂を復旧させ、
被災地バスツアー「語り部バス」を毎朝運行しながら、
従業員の皆さんの何人かは、今も仮設住宅から通って、元気に営業中。

観洋さんは震災後、従業員自身も被災をしながらも、
自主的に施設を避難住民とボランティアスタッフに開放し、
600人の避難民を数か月にわたって住まわせ、人道的に活動をしました。

本当に、心意気が素晴らしいホテル。
「どんなストレートな質問でも慣れています、
聞いて欲しい、遊びに来てほしい」とスタッフさん言っていました。

営業は完全に回復し、南三陸の、豊かな海を見ながらお湯に浸かれます。
この海が、あの日あんなに猛り狂ったなんて…と考えずにはいられないけれど。
ここを拠点に、この沿岸部の被災地ツアーをすることをお勧めします。

南三陸ホテル 観洋 ホームページはこちら


翌日は、地元の老人クラブとの交流を、ということで、仮設に住む
三人の老婦人を迎えての、お料理教室。

辛い経験をしてデリケートなんだろうか、心を閉ざしていたりしないだろうか、
と余計な心配をしていましたが、とても気さくで、時に大爆笑しながらの作業。

この地区のお雑煮と、切干大根の煮物を一緒に作って、もちっこ焼いて、ランチ。
私は包丁の研ぎ方が下手で「ぜんぜん切れねわ」と
叱られました。楽しかったなあ~~


気仙沼7

東北なまりで、山形弁を勉強している私でも6割しか聞きとれませんでした。
関西の二人はまったく分からなかったことと思う。


でも。


時々、垣間見えてしまうんですよ。辛いことを押し隠していることが。

嫁が流された。とか、あっちの住人はズルして配給物資たくさん取った、とか。
そういう時は特に強い東北なまりで、なるべく私たちに分からないように
しゃべってくれているのです。

でも私はやはり住んでいる場所も近い。
言葉がところどころ分かってしまった。


おばあちゃんたちが帰った後、阿部さんが私たちに衝撃の一言。


「あの人たちの元気は全て、カラ元気。笑顔は全て、作り笑顔です」と。

当然かもしれない。大切なものたちをたくさん失って、心から笑える日は、
もう二度と来ないのかもしれない。

でも、震災後おばあちゃんたちと阿部さんは約束をしたそうです。
ボランティアの人たちに、辛い姿は見せない、きつくても笑おうね、て。
遠くから来た私たちに笑顔と元気を見せる、それがここの住人たちの
おもてなしなのです。

そしてそうやって笑っているうちに、いつかそれが本物の元気になる
日がやってくると、信じて笑っているのです。

なんて、強くて、優しいひとたち。

どっちがボランティアやってんだか、まったく分かんなくなりました。


たくさん笑って、帰り道。

別れ際、また来るね、次は新潟のお土産を持ってくるね、って言ったら、
おばあちゃんたちが私の手を握って、初めてものすごく真剣な顔になり、
「おみやげは要らない、あなたが、また来てくれればそれでいい、
本当にまた、会いに来てほしい、待っている」と(東北なまりで)言いました。


泣きそうになった。けど、泣かなかった。

だって、私に出来るボランティアは、
一緒に笑うこと、多分マジでそれだけだから。

気仙沼13

帰りがけに、おばあちゃんたちと一緒に切り分けたお餅を、
小泉地区の仮設70軒ほどに配りに行きました。

話をしに来てくれる人を心待ちにしている一人暮らしの老人も多く、
なぜかコイバナになっちゃったり(「俺はバツ3だ!」とか)
雨漏りで困っているおばあちゃんの相談に乗ったりとかして、
帰途に着きました。

また、自然楽校の管理をしてくれている大家さんの家で話したり、
夜はここを一緒に建てた漁師さんが来てしゃべっていったり、
ここの温かくて人懐っこい愛すべき住人たちとたくさん出逢えた一日です。

すぐに、行ったり、来たり。
野菜を、あげたり、もらったり。
顔をみれば「あたってけー」(温まっていきなさい)と必ず家の中に誘ってくれる。

ここの地域の気風なんですね。
なんてあたたかくて素晴らしいんだろう。


気仙沼18



次回は最終日です。

ここまでお付き合い頂いてありがとうございます。
あと一回か二回だからね!最後までよろしくお願いします。

わたしの記憶の褪せないうちに、早く、みなさんに、届けます。



(4)へつづく。 

小泉自然楽校のブログはこちら。 

::::最近のコメ::::